午後のマドンナ

長いトンネルを抜けても何の変化もなく、面白味も感じられない延々と続く森林の光景を、ある種の詩的なるものに変貌させる術を考えた結果、彼はこの森林を映画のタイトルバックとして使用する妄想を行うこととなった。彼がまず最初に思い浮かんだものは、キューブリックの『シャイニング』だ。森林をバックにして、水色の文字で「RYOTA TOKUNAGA」という監督名が浮かび上がってくる。映画の題名は『』だ。ホラー映画の『シャイニング』とはまた違った、人間の怖さを映画にしようと思った彼は、自分自身が感じる怖さと向き合ってみた。彼にとって怖いもの、それは「生」であった。生きるために朝7時に起床して、夜10時に帰宅する生活。あるいはそうした日々に違和感を覚えなかった自分自身。しかし、彼の面白くもない生活を撮ったとしても結局誰もみやしないので、助手席に女王様風情で眠っている妻を起こして聞いてみた。「君が人間の怖さを映画にするとしたら、何を映すかな。」返事なし。「ところで、あと10分で着きそうなんだけど、この10分のあいだに君が怖いと思うものについておしえて欲しいな。」またもや返事なし。ミラーには起きている妻の顔が見えるが、どうやら答える気がないらしい。ここで、キューブリックの選択肢がきえた。次に「A TOKUNAGA'S FILM」の後に、『』というタイトルバックが現れる園子温的な自己陶酔型映画の妄想を行うことにした。特定の人間が滅法好む言葉、「愛」とは何か考えてみた。「我々が人を愛するのは、その人たちが我々にしてくれたよいことのためというよりむしろ、我々がその人たちにしてやったよいことのためである。」どこかで聞いたことのある文が思い浮かんだので、これを妻にたずねてみることにした。例に漏れず、返事は皆無だ。「到着までのあと7分間、君は黙ったままでいるつもりかい?」「‥」彼が愛について考えるのにはもう遅すぎたのかもしれない。妻の無視によって彼の妄想が途中で終わるはめになるので、何の変哲もない森は何の変哲もない森のまま通りすぎてしまっている。彼の最初の目標、つまり「面白くない森林を詩的なものに変貌させる妄想」の残り時間も、あと5分を切った。今まで続いていた坂道がより一層急勾配になってきた。彼は急いで次の映画を決めようとした。しかし、中々出てこない。このまま目的地に到着することに少し恐怖を覚えた彼に、ヘミングウェイの『老人と海』がふとよぎったとき、彼らを取り囲んでいた森林が一気に開けて、目の前に巨大な雲海が現れた。坂道はその雲海に向かって続いていて、彼はブレーキを踏むことなくその中に入っていった。隣にいた妻をミラー越しにみると、さっきまで無表情で彼を無視していた妻が、一瞬、聖母のみに許された微笑みを浮かべたのを、彼は見逃さなかった。